圓福寺の概要


宗派

宗 派 臨済宗妙心寺派
末寺数約3400ヶ寺で、臨済宗最大の派。
臨済宗には、南禅寺派・建長寺派・東福寺派・円覚寺派・
大徳寺派など14派あります。
本 山 正法山妙心寺
開 山 無相大師関山慧玄禅師
開 基 花園法皇
有名寺院 松島瑞巌寺、那須雲巌寺、野火止平林寺、静岡臨済寺、
博多聖福寺など多数

宗旨

修 行 坐禅・作務
教 え 開山無相大師の「請う、其の本を務めよ」という
ご遺誡(亡くなる前のおさとし)と花園法皇の
「報恩 謝徳」「仏法興隆」という願いを生活の中で
実践していくことです。
生活信条 一日一度は静かに坐って、
   身と呼吸と心を調えましょう。
人間の尊さにめざめ、
   自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。
生かされている自分を感謝し、
   報恩の行を積みましょう。

歴代住職ほか

華蔵姫

華蔵姫は、南北朝後醍醐天皇の皇子護良親王の側女と伝えられ、親王が鎌倉に幽閉された折、その身を案じて鎌倉に来られました。しかしながら、鎌倉に到着したときには、すでに護良親王は暗殺された後でした。
わが身にも災禍が及ぶことを怖れ、海路上総に渡るも東金にて落飾されて、護良親王の菩提を弔われた。故に、彼の地を「禅宗尼御所」という。亡くなられて後、その墳墓を守護するために圓福寺が建立された。現在、墳墓の場所は人手に渡り、うっそうとした杉林となっている。


象匏和尚

小見川樹林寺の石室禅師のもとで得度する。1815年樹林寺住職となる。隠居後、東金圓福寺に閑栖。その後、伊豆国清寺・常陸常光寺を歴住し、神戸の祥福寺専門道場の師家となられる。祥福寺閑栖ののち、出雲慈圓寺にて1841年に遷化された。世壽62歳。同年諡して「神鑑獨照禅師」号を賜られた。


匏岳和尚

秋田県岩城生。同所、妙心寺派福城寺にて得度。小見川樹林寺隠居後、東金圓福寺に閑栖。圓福寺にて、土地・田畑等を増やし、寺の経済基盤を整え、護持に務めらた。明治14年、83歳で遷化された。

法縁

高野山千葉別院

昭和のはじめに、「高野山千葉別院」の名の下に、壮大な寺院建立の計画がされておりました。仮本堂が建立され、近郷近在からの参詣者で賑わったそうです。昭和13年の「京成電車沿線案内」に掲載されたハイキングコースにもその名を留めるほどでした。しかしながら、時節因縁熟さず、計画は頓挫し、荒れるに任されたままでした。縁在り、臨済宗に転宗し、仏縁をつないで現在に至っています。
大師堂内の弘法大師尊像は、昭和のはじめに高野山遍照光院より、「高野山千葉別院」のお大師様として勧請されたものです。


樹林寺

平安末期、大治年間(1126~1130)に開創され、天文元年(1532)、真言宗から臨済宗へと改宗されました。現住職で18代目となります。徳川時代には朱印地を下賜され、紫衣着用年始独礼の十万石の格式でした。本尊は「夕顔観世音」で、徳川綱吉公の母堂がその霊験を聞き、江戸城大奥で百日間のご開帳を命ずるほどの霊仏と言われていますが、残念ながら今では秘仏として、ご開帳されることはありません。また、江戸時代までは、圓福寺以外にも、境内の中に回向院、明心庵などの末寺があったと伝えられています。