圓福寺縁起・寺史・寺宝
圓福寺縁起
圓福寺縁起
南北朝の初期、後醍醐天皇の皇子 護良親王の菩提を弔うために落飾された華蔵姫、諡して「圓教大姉)」、その墓所を守護するために、現在の東金市家之子に圓福寺は建立されました。
華蔵姫が落飾されて居を構えたところは「禅宗尼御所」といわれ、圓福寺はその後十代に渡る尼御所歴代の墓所を守護しておりました。
その後、江戸時代に小見川町樹林寺の隠居寺となり、歴代の住職には神戸祥福寺専門道場の師家となられた象匏和尚などがおられます。
昭和になって、臨済宗寺院の皆無だった現在地千葉市に移転し、臨在の宗風を挙揚して今日に至っております。
境内入り口の大師堂には、高野山千葉別院として参拝者で賑わった時代の弘法大師尊像を奉安しております。
この大師像は、高野山遍照光院より請来されたものといわれております。
本堂左奥の墓地には、永代供養塔「涅槃精舎」が建立され、石像としては類を見ない大きさの「涅槃像」が奉安され、現当二世の安楽を見守っております。
圓福寺史
東金圓福寺
年 | 出来事 |
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1343 | 華蔵姫の墳墓守護の為に、大廣山圓福寺が東金市家之子に建立される。 |
足利尊氏より三千六百石の寄進を受け、 禅宗尼御所といわれる。 | |
1421 | 尼御所は日蓮宗に改宗される。 |
1661 | 小見川樹林寺の隠居寺として圓福寺復興。 開山天源全朗和尚。 |
二世博道不識和尚。 | |
1771 | 三世竜眠慎和尚遷化。 |
1822 | 四世白堂顆和尚遷化。 |
1841 | 五世神鑑獨照禅師象匏文雅和尚遷化。 |
1849 | 七世匏岳礎和尚晋山。 |
1851 | 六世無参一和尚遷化。 |
1857 | 火事に遭う。 |
1862 | 火事に遭う。 |
1881 (明治14年) | 七世匏岳礎和尚遷化。 |
1913 (大正2年) | 八世洪基和尚晋山。 |
1923 (昭和4年) | 高野山千葉別院設立。 |
1940 (昭和15年) | 九世恵心尼和尚晋山。 |
単立圓福寺
1942 (昭和17年) | 高野山千葉別院を臨済宗に改宗。 |
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1952 (昭和27年) | 高野山圓福寺(単立寺院)設立。 |
1964 (昭和39年) | 高野山圓福寺、妙心寺派となる。 |
千葉圓福寺
1976 (昭和51年) | 東金圓福寺と千葉の高野山圓福寺とが合併。 |
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1990 (平成2年) | 内陣改修・納骨堂新築工事。 |
1991 (平成3年) | 地蔵盆と圓福寺寺子屋「禅童会」がはじまる。 |
1992 (平成4年) | 現住職宗格、十世となる。 |
1997 (平成9年) | 大師堂完成。落慶法要に、お稚児さん百六十余名。 |
1998 (平成10年) | 平成の大改修として、玄関改修・書院新築する。 |
2001 (平成13年) | 四国あるき遍路がはじまる。 |
2001 (平成13年) | 永代供養塔「涅槃精舎」完成。 平林寺放牛窟老大師を大導師に落慶法要厳修。 |
2002 (平成14年) | 九世恵心尼和尚遷化。世壽97歳 |
2003 (平成15年) | 写経会がはじまる。 |
2005 (平成17年) | 市原別院計画スタート。 |
2006 (平成18年) | 幼稚園新園舎完成 |
歴代住職のほか
華蔵姫
華蔵姫は、南北朝後醍醐天皇の皇子護良親王の側女と伝えられ、親王が鎌倉に幽閉された折、その身を案じて鎌倉に来られました。
しかしながら、鎌倉に到着したときには、すでに護良親王は暗殺された後でした。
わが身にも災禍が及ぶことを怖れ、海路上総に渡るも東金にて落飾されて、護良親王の菩提を弔われた。故に、彼の地を「禅宗尼御所」という。
亡くなられて後、その墳墓を守護するために圓福寺が建立された。現在、墳墓の場所は人手に渡り、うっそうとした杉林となっている。
象匏和尚
小見川樹林寺の石室禅師のもとで得度する。1815年樹林寺住職となる。
隠居後、東金圓福寺に閑栖。その後、伊豆国清寺・常陸常光寺を歴住し、神戸の祥福寺専門道場の師家となられる。
祥福寺閑栖ののち、出雲慈圓寺にて1841年に遷化された。世壽62歳。同年諡して「神鑑獨照禅師」号を賜られた。
匏岳和尚
秋田県岩城生。同所、妙心寺派福城寺にて得度。小見川樹林寺隠居後、東金圓福寺に閑栖。
圓福寺にて、土地・田畑等を増やし、寺の経済基盤を整え、護持に務めらた。
明治14年、83歳で遷化された。
法縁
高野山千葉別院
昭和のはじめに、「高野山千葉別院」の名の下に、壮大な寺院建立の計画がされておりました。仮本堂が建立され、近郷近在からの参詣者で賑わったそうです。昭和13年の「京成電車沿線案内」に掲載されたハイキングコースにもその名を留めるほどでした。
しかしながら、時節因縁熟さず、計画は頓挫し、荒れるに任されたままでした。縁在り、臨済宗に転宗し、仏縁をつないで現在に至っています。
大師堂内の弘法大師尊像は、昭和のはじめに高野山遍照光院より、「高野山千葉別院」のお大師様として勧請されたものです。
樹林寺
平安末期、大治年間(1126~1130)に開創され、天文元年(1532)、真言宗から臨済宗へと改宗されました。現住職で18代目となります。徳川時代には朱印地を下賜され、紫衣着用年始独礼の十万石の格式でした。
本尊は「夕顔観世音」で、徳川綱吉公の母堂がその霊験を聞き、江戸城大奥で百日間のご開帳を命ずるほどの霊仏と言われていますが、残念ながら今では秘仏として、ご開帳されることはありません。また、江戸時代までは、圓福寺以外にも、境内の中に回向院、明心庵などの末寺があったと伝えられています。
寺宝紹介
寺の歴史をご覧いただければおわかりの通り、圓福寺に大した寺宝があるわけがありません。せいぜい掛け軸ぐらいなものです。それも縁のない人にとっては、宝物でもなんでもないと思います。
このページでは、掛け軸などをご紹介しながら、禅のお話なども少しはさせていただこうと思っています。少しずつ掲載していきますので、長い目で見て下さい。