寺日記

第18回圓福寺寺子屋「禅童会」

2009 年 07月 26日

毎年夏休み最初の土日の一泊二日で開催される「禅童会」も回を重ねて18回となりました。

参加者は昨年同様10名前後でした。一昨年までは20名前後だったのが、ガタッと参加者が減っています。塾の夏期講習、スイミングスクールの短期教室、林間・臨海学校、地域のお祭りなど、夏休み最初の土日はどこでもイベント目白押しなのでしょう。そんな中でも、親子ともども勇気をもって参加させ、参加する子どもたちには、驚きや喜びや学びをいただく2日間です。

■うどん作りで気づいたこと。

今年は小麦粉や塩・水を自分たちで計量させました。今までは、時間がもったいないと思って、全部量って準備をしたのですが、今年は人数も少ないので、量っておくことをやめました。

うどんの材料は、「小麦粉と塩と水、これだけだから、きちんと量らないとおいしいうどんはできないよ。でも、自分で作るんだからおいしくなくても文句は言えないよね。」これだけの話でしたが、子どもたちの印象に残ったようでした。

「うどんが、小麦粉と塩と水だけでできることに驚きました。」と、感想文にありました。なにも人にいわれなくても、そこにある

材料を見ればなにでできているのかわかると思うのですが、言われて初めて気づいた子どもたちもいたようです。

禅宗では、「看取せよ。」看て取れということを大切にします。極端なときには、一度看たんだからもうできるだろうといわれることもあります。それは、ひいては相手の気持ちを察することができることだと思います。

ところが子どもたちは、現物を見ていても人に言われないと気づけないのです。相手の気持ちになるなんてとんでもないことに違いありません。

なぜ気づけないんだろうと考えたら、一つには親があまりにも指図したり、口やかましく言ったりするからだと思います。あれしなさい、これしなさい、○○ は済んだの?、○○してはいけません・・・などと言っているうちに、子どもたちのアンテナは感度を悪くし、そのうちアンテナ自体がなくなってしまうかもしれません。そうなると、マニュアルどおりにしか動けない人間になってしまうのでないでしょうか。

禅の言葉に、「好語説き尽くす可からず。」というように、仔細に渡るまでの説明や指図は相手を育てない言葉になりかねません。相手を思っての言葉も、度を越すとよくないんだなと気づかせてもらいました。

7月26日

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